荷風とお岩さん 余丁町散人「荷風塾」学校通信の第4号です。今回は余丁町からちょっと離れて、荷風と於岩稲荷の関係について。お岩さんといえば四谷左門町の田宮神社。余丁町から目と鼻の先です。当然荷風もここにお参りしたことがあるはずと睨んでいたのですが、違うんですね。別のところのお岩さんだったんです。これが今日のお話。
散人は年甲斐もなくお化けのお話が好きなんですが、荷風はさすがは合理主義者、あまりその類のお話は書いていません。でもその荷風にも「お化け小説」に近いものもがあるのです。それが昭和19年に書かれた小説「来訪者」。お話は、老齢期に達した作家(荷風)が偶然文学を語り合える二人の若い友人に巡り会う。しかし、結局彼らに裏切られ、失望落胆するというものですが、主人公の老作家(荷風)が書いた『怪夢録』というお化け話の原稿が重要な小道具として使われているし、また悪役になる若者は(その罰として)お岩稲荷のそばの越前堀の隠れ家で人間離れした淫女に苦しめられるという、荷風にしては珍しく「お化け小説」の色彩が強いものです。とても面白い。
ところがこの小説の評判は決してよくありません。為にするために書かれた陰険な個人攻撃の文書と見なされることが多いようです。確かに、この「悪い若者」のモデルとなった平井程一(アーサー・マッケンの翻訳者として知られている人物)はかなり迷惑を被ったようです。でも実際の平井程一は博覧強記の立派な人物であり、いまでも彼を師と仰ぐ人々は少なからず存在するようで、それらの人たちによって、平井程一先生を攻撃した荷風はとんでもない「陰険爺」だと書かれる、というのが実態のようです。
| 紀田順一郎『略して記さず』では たとえば平井程一に私淑した紀田順一郎は『略して記さず』と題した文章の中で次のように書いています。
<引用はじめ>
「荷風は『おかめ笹』という滑稽小説があるように、本来ユーモア感覚に富んだ人だが、この作品はジョークにもならなかった。終わりに近い部分で荷風が「京橋区湊町は越前堀のお岩稲荷の側」にあるという二人の隠れ家を探索に行く場面があるが、お岩稲荷は昔から四谷左門町にあるものと相場が決まっている。こうした初歩的なミスが生じたのは、是が非でも二人の人物を淫靡かつ矮小な世界(ここでは怪談)に押しこめることで頭がいっぱいだったからであろう。お常をお岩に見立て、真夜中になると人が変わって白井を追い回すという趣向により、荷風は単純な復讐心を満たしているのである。(中略)要するに、あらゆる意味で荷風の執拗な復讐心の現れた作品というしかない」
<引用終わり>
痛烈ですね。散人もお岩稲荷は四谷の左門町にだけあるものと思っていましたので、越前堀というのはお話を面白くするために荷風が設定したフィクションだろうと考えていました。しかし、昨年ネットニュース fj.books で久留さんという方から、当時お岩稲荷は越前堀に移転していたので、この点については荷風が正しく「初歩的なミス」をしたのは紀田順一郎の方だと教えて貰いました。いやあ、嬉しかったですねえ。さすがにネットの世界は広大です。いろんな物知りがいる。
早速、四谷の田宮神社(お岩稲荷)に赴き縁起を調べますに、その通りだと判りました。お岩稲荷の始まりは四谷左門町で寛永13年(1636年)に遡りますが、文政8年(1825年)の東海道四谷怪談の上演以降、歌舞伎役者を中心に参拝客が増え「於岩稲荷」として有名になります。しかし明治12年の火事で社殿が焼失し四谷から越前堀に移ったのでした。それが第二次世界大戦でまた焼失し、今度は四谷左門町、新川2丁目(越前堀)二カ所に再建したということのようです。荷風が「来訪者」を書いたのは昭和19年ですから、その時は於岩稲荷はまさしく越前堀にあったのでした。
散人はこの度「来訪者」をもう一度読んでみましたが、「筆誅の書」という印象は受けませんでした。東京下町の風景の描写もしっとりしていて、さすがは荷風とうならせますし、老作家の青春を惜しむ気持ちが、去っていった二人の若い友人への暖かい感情と重なって、むしろ荷風は二人を懐かしんでいるのではないかとさえ感じたくらいです。平井呈一氏と実際に会って話を聞いた秋庭太郎によれば平井程一本人は荷風をいっさい恨んではいなかったそうで、なんだか肯ける気がいたします。 |
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